生きづらさは、自分の特性と環境のかけ合わせで生じる ~発達障害というあいまいな概念をどう捉えるか⑤~
発達障害の特性が仕事や生活の「障害」 になるかどうかは、環境しだいと言えます。
これは発達障害に限った話ではないと思いますが、発達障害というあいまいな概念について考える時に、特性と環境と切っても切れない関係にあると考えています。
例をあげます。
私は強度の近視で、かなり視力が低いです。
メガネやコンタクトレンズがなければ、日常生活に支障をきたします。
字の読み書きはもちろん、車の運転なんてとんでもありません。
でも、今の日本で生活していて困ることはほぼありません。
スポーツをしていて、相手とぶつかってメガネが吹っ飛んだといった特定の状況を除いて。
道具を使う分、裸眼でよく見える人より少し手間かな、といったくらいです。
視力が近視などで1.0以下の人を「視力障害」とするならば、私は「視力障害者」になります。
でも、メガネやコンタクトレンズで矯正できる。
そういった道具を手に入れるのに、お金はかかりますが、大変な苦労をするということもない。
そもそも、日本で生活していると、メガネをかけている、コンタクトレンズをしている人なんて全く珍しくありません。
むしろどっちが「多数派」かわからないくらいですよね。
この多数派というのもポイントだと思っています。
もうひとつ、例をあげます。
(Twitterで見つけたのですが、引用元がわからなくなりました。)
ほとんどの人が空を飛べるのが当たり前の社会があります。
町は、空が飛べること前提で作られています。
だから、飛べない少数派の人は、「空中障害」という診断をつけられることになります。
少しの間だけ飛べる薬が開発・処方されることになるでしょう。
タケコプターのような、空を飛べるツールも開発されるでしょう。
後半は私が話を少し膨らませました(笑)
障害は、社会が生んでいる側面もあると言えます。
Aという環境では障害になる。
けどBの環境下では、ほどんど問題にならない。
といったことはあると思います。
物忘れがちょっと多くても、
自分でスマホのリマインダーをセットしたり、
パートナーが声をかけてくれたりすることで、
さほど生活に困っていない人もいる。
特性を和らげて、いわゆる平均的で「普通」の人に近づこうとするのか?
環境をまるごと変えて、弱みとされていた特性を強みにして生活するのか?
今いる場所で、自分の身の回りの人にサポートをお願いするのか?
どうすれば、より気持ちよく生活を送れて生きやすくなるのかを、考え続けていきたいと思います。
これを読んでいるあなたは、どんな環境調整をしたいですか?
【告知】
毎月岡山で開催しているADHDコミュニティー「パステル」を、今月はオンラインで開催します。
ゲストに、カウンセリングルームすのわの南 和行先生をお呼びします。
ADHDに関する講義→参加者の方同士のWeb座談会という形式です。
普段は遠方でなかなお会いできない方も、この機会によろしければ。
分類してもいいけど分断・分離しない(発達障害というあいまいな概念をどう捉えるか④)
以前、こんな記事を書きました。
many-pastel-color.hatenadiary.com
定型か、発達か。
私は、そもそもこの二元論で全ては語れないと考えています。
医学的には、診断がつくかどうかは大切な事ですが、つかないグレーゾーンの人もたくさんいます。
グレーゾーンの人も、仲間です。
特性に理解を示し、サポートしてくれる人も、仲間です。
そして、今はまだ発達障害の特性に理解のない人も、仲間にしていく必要があると思っています。
「そんなの、無理でしょう?」
「全く違うのだから。」
そう思うのも、無理はありません。
特性のあまりない人からすると、強く特性が出ている人の言動や行動が理解しにくいということはあると思います。
言葉は良くないですが、「別の星の人」のように感じられるかもしれません。
でも、この人達と自分達は、違う。
別次元の存在だ。
とすると、そこで終わりです。
分断分離して、異質な物とは関わらない。
そこから何も進みません。
「きれいごとを言うな。」
「その方が安全じゃないか。」
「何が悪いんだ?」
でも、「分離・分断する」という視点を持ち続けていれば、そのうち同じ集団にも向けられる可能性があります。
仲間だと思っていた同じコミュニティ内で「分離・分断」が起きるかもしれない、という事です。
私はADHD・ADDやグレーゾーンのコミュニティ「パステル」を運営しています。
各地の当事者会のリーダーが集まる「ピアリーダー研修会」に行ったとき、
「リーダーの人は、会に来た人をジャッジして欲しくない。」
という言葉を聞き、ハッとした事があります。
無意識に、「自分と合いそう。」
かどうか、ジャッジしていた自分に気が付いたからです。
どんな人だろうと、何かを求めて、わざわざ足を運んできてくれた事に変わりはない。
主催者はもっとフラットでいないといけない、と感じさせられた経験です。
自分を含めて、わざわざ色んな人が色んな当事者会やコミュニティを作るのは、安全な「居場所」が欲しいからだと思います。
似たような人が集まって、普段話せない事も安心して話せる場所には、自己理解を深め、しんどい思いをした人が回復していく力があると感じています。
話している方は「しっかり聞いてもらえている」と実感し、
聞いている方は「それ、あるある。」と共感する。
お互いにとっていい事があります。
家庭や職場に次ぐ第3の居場所、サードプレイスがある事には、意味があるのです。
でも、当事者会は「特別な場所」なので、いずれは家庭や職場など、普段の生活に戻っていかねばなりません。
戻ったときに、自分や周りによい影響がある。
少し気持ちに余裕がもてる。
会で話し合ったADHD改善策や工夫を試してみる。
職場の人への特性の伝え方を考えて、少し話してみる。
サードプレイスは、家庭や職場と行き来しながら、楽しく話して、自信が回復できるような場所になったらいいと思っています。
特性のある人も、そうでない人に対して「閉じない」姿勢は大切なのではないでしょうか。
発達障害とは直接関係がありませんが、この記事を書くにあたって、以下の記事からアイデアを頂きました。
ありがとうございます。
パステルは今月も開催します。
当事者の方がゲストで参加されます。
まだ残席が3ありますので、よろしければ。
発達障害は、脳の病気なの?(発達障害というあいまいな概念をどう捉えるか③)
気になっている表現があります。
「発達障害は、脳の『病気です』」という表現です。
ある記事に、
「発達障害はまだまだ研究途上の分野で、知識不足であったり、取り扱っていない精神科医院も多く存在する。診断した医師によって大きく診断結果に差が出るのも、よくある話のようだ。 判断が分かれるところなので、セカンドオピニオンも盛んに行われている。」
という内容が載っていました。(引用元忘れてしまいました)
判断が分かれる・・・発達障害を「病気」とすると、あるお医者さんからは「あなたは病気じゃありません。」と言われたけど、別のお医者さんにかかったら「あなたは病気ですよ。」
と言われるかもしれないって事でしょうか。
そ、そんな・・・。
発達障害は、実体のない障害です。
目には見えません。
見える(表に出ている)のは、特性によって本人が困っている様子だけ。
そういう実態はあっても、実体はないのです。
「特性によって症状が出ているなら、それは病気ですよね。」
と捉える考えもわからなくはないけれど、どこかに傷がある、腫瘍があるとか、そういうレベルで白か黒かはっきりするものではありません。
「病気」と捉えると、投薬の対象になります。
これは、人によっては福音になるでしょう。
でも、薬は対症療法で、症状が完全になくなることはありません。
なら、一生薬を飲み続けなければいけないの?
この病気は、完治しない?
治らないの?
自分は不治の病なのか?
この辺りの疑問が、頭をよぎることになります。
実際、私もそうでした。
私はADHDの治療薬である「ストラテラ」や「コンサータ」の治験を受けた事があります。
それを信頼のおける友人に話したとき、
「その薬、ずっと飲み続けないといけないんじゃない?」
と言われた事があります。
当時の自分にはうまく言葉を返すことができませんでした。
薬をきっかけにして、仕事や生活がうまく回っていく人もいます。
いつまでどのくらい飲むかは、医者と相談の上、自分で決めれば良いことなのですが、
発達障害の特性は、自分が一生付き合っていくもの。
時に暴れ馬だったり、しょっちゅうフリーズする安定性の悪いパソコンのようだったりするかもしれませんが、うまく付き合っていくパートナーのようになったらいいと、思っています。
だから、「病気」という言い方に、どうしても違和感が拭えなかったのです。
「私は発達障害者とは「生まれつきの脳機能の偏りが原因で、生活に支障をきたしている状態の方」と思っています。
つまり、脳機能が偏っていても【生活に支障をきたしている状態】では無い場合、発達障害者ではありません。」
(発達さんへの案内板~生き辛い症状を、取るに足らない特徴に~より引用)
このサイトでは、発達障害をもつ人のことを「発達さん」と呼んでいます。
発達凸凹。
アンバランス。
色んな言い方があります。
これを読んでいるあなたは、「発達障害」を、別の言葉でどのように言えると思いますか?
上記サイト名にもある、「生き辛い症状を、取るに足らない特徴に」していくために、できることは何だ思いますか?
ADHDという概念を、自己理解の助けにする。(発達障害というあいまいな概念をどう捉えるか②)
発達障害の特性は、その人の一部。全部じゃない。#ADHD#発達障害
— Manbow (@Manbow_pastel) 2020年1月10日
前回の記事で、
・発達障害というのは、「人間が基準を作った障害」
・診断の有無やADHDやASDといった概念に、振り回され過ぎないことが大切
・自分に特性があると認知することは、自己理解のスタート
・だから発達障害の概念も、診断名も、自分が生きやすくなるためのツールとして使えたらいい
という事を書きました。
many-pastel-color.hatenadiary.com
ADHDという枠組みやラベルが、その人自身ではない。
という事が言いたいのです。
再び、只野さん(@adhdillustrator)のメルマガより引用です。
~以下、引用~
私のADHDの克服術は、
『環境を整えること』
に尽きます。
~中略~
「障害」という言葉を使うと、
気にする方がいるのですが、
もちろん、私自身、
ADHDの特徴に関して、
「特性」と捉えるように
してきました。
それでも、自分の
トラブル人生において
この特性が「障害」に
なったことは何度も
ありました。
~引用終わり~
確かに発達「障害」というという言い方が、すべての人にとって適切なのかどうかは疑問です。
重さが人によって違いますしね。
これは主観なのですが、「特性」という方がフラットな感じがして、言いやすいと思っています。
発達障害の特性について知り、自分への「気付き」が得られるのはとてもいい事だと思います。
でも、
「あ、私、ADHDの特徴が私ここも当てはまる!」
「ここもだああ!」
と、自分から概念、枠組みにどっぷり入っていき、そこから抜け出せなくなる
のではなく、
自分がその枠組み(「ラベル」と言ってもいいですね)を使って自己理解のステップを踏む。
そのプロセスが重要なのだと思います。
冒頭で引用したメルマガを書いている只野さんは、以下のページでADHDに関する情報を発信されています。
イラストを見ると、ほんわかしてきます。
メルマガの登録もこちらから行えます。
興味のある方はぜひ。
今月末には、私が主催しているADHDコミュニティ「パステル」にゲスト参加して頂きます。
「今までの困りごと」や「今している環境調整」について、詳しくお話を聞く予定です。
こちらもよろしれば。
発達障害というあいまいな概念をどう捉えるか
Manbow(@Manbow_pastel)です。
登録しているメルマガで、興味深い記事を読みました。
~以下、引用~
Manbowさんは、
本当に発達障害者ですか?
「本当ですよ!
私はちゃんと病院で
○○検査もやって、
○○の診断結果も貰って、
正式なADHDと言われたのです!」
「それに、この生きづらさも事実です。
それなのに、発達障害じゃない、
なんて言われたら、どうすればいいのか
分からなくなります!」
そう。
発達障害の診断の受けた方の多くが、
自分の症状を
自分のせいにして責めて
潰れそうになっています。
その苦しさを
どうにかしたくて、
「あなたはADHDです。
生まれつきの脳機能障害ですから、
あなたのせいではありません。」
という診断を貰うことで、
ホッとしたかっただけなのです。
これは、私の意見でしか
ありませんので、
盲信して欲しくはないのですが、
ADHDの検査を受けた方なら
お分かりのように、
いくつかの発達検査を受けたり
問診をしたりするだけで、
「人間が作った基準」に従って
人間が判断しているだけです。
つまり、発達障害というのは、
「人間が基準を作った障害」です。
耳が聞こえない、
とかそういうハッキリした
障害ではないのです。
先天的にそうなのかどうかも、
特定できる証拠はまだありません。
~中略~
だから、
発達障害を
ドキドキしながら
カミングアウトしたのに、
「あー最近、流行ってるよね」
って言われた。
なんて悲惨なことも
起きるわけです。
こんな話を聞いて
悲しい気持ちになった方がいたら、ものすごくつらいのですが、
私の発達障害に対する見方は、
今は、こんな感じです。
私は、ADHDっていう属性は
あると思っていますが、
それが「障害」
だと捉えるつもりはありません。
診断をもらえなかった
グレーゾーンの人たちも、
仲間だと思っています。
そもそも、脳のことは
まだほとんどが解明されてなくて
脳のここが、
こういう時に電気信号を出した、
とかそんな曖昧なレベルです。
だから、脳に効く薬も、
憶測のレベルの薬だ、と言えます。
だって、ADHDの原因ですら、
ドーパミンが不足している
「と言われています」、
っていう断定しない語尾なんです。
まだそういう未開発な分野なんです。
~引用終わり(太字はManbowが付けました)~
只野さん(@adhdillustrator)のメルマガより
僕がポイントだと思った点は2つ。
①脳については未開発なところが多く,発達障害の原因は、まだはっきりと特定・断定できない。
②発達障害というのは、「人間が基準を作った障害」である。
もう一つ、別の方のサイトから引用します。
私は「本人が生きやすくなれば、ADHDだろうがASDだろうが、名称や診断名なんて正直どうでも良い」と思っています。
同時に「本人が生きやすくなるのなら、ADHDやASDの診断名・概念を手段として使ったら良い」とも思っています。
私は発達障害・ADHD・ASDの概念が無かったら「努力不足のダメな人」でした。
概念があったからこそ「さあ、これから、どうしよう?」と考える事が出来ました。
その一方で「ADHD/ASDだから××なんだ、出来ないんだ」と失敗の原因を診断名のせいにしてしまう時もありました。
~中略~
恐らく当事者の皆様が1度は考えて落ち込んだ経験があると思います。
そんな時は充分な睡眠と栄養を取って冷静になってから「私はADHD/ASD傾向があって、××という困り事がある。だったら、○○という対策が立てられるのでは?」という考え方をして欲しい、と願っています。
本来「現状よりも生活を良くする手段を得る為」に診断されたはずですから。
発達さんへの案内板~生き辛い症状を、取るに足らない特徴に~
https://developmental-information-board.com/frontpage/about-notation/
より(太字はまたManbowが付けています。ご了承ください。)
診断の有無やADHDやASDといった概念に、振り回され過ぎないことが大切。
と言うのが僕自身の考えです。
白か黒か。診断がつくかどうか。
それは、社会的な支援を受けたり、薬を頂いたりする上ではとても重要です。
ないがしろにはできません。
自分に発達障害の特性があると分かるまでは、森の中をさまよっているような、出口の見えない不安にさいなまれている人もいると思います。
なぜ、他の人がいとも簡単にできることが、自分にはひどく難しいのか。
まぜ、自分はこんなにも周囲とのズレや違和感を感じるのか。
本当に、わからないのです。
そういった事に対する分かりやすい一つの「答え」が、発達障害の特性を知ると分かります。
「そうだったのか!」と。
癒やされる経験はとても大切だと思います。
前に進むきっかけになるので。
ADHDとか、ASDというようにカテゴライズすることにも、ちゃんと意味があると思っています。
ただ、「人間が作り出した概念」なので、突き詰めて考えると、
とか、
「ADHDもASDもも、LDも少しずつあるぞ!でもチェックリストをやったら、どれも基準を満たさない。」
という事が起こるのは自然なことです。
そこにこだわりすぎると、また森の中をさまよってしまいます。
「自分は何なんだ。」と。
診断を受けることは、ゴールではありません。
自分に特性があると認知することは、自己理解のスタートです。
本やインターネットで多くの情報を集めたり
自分で工夫をしたり
同じような特性のある人と話したり
他の人に自分の特性や困りごとを自分の言葉で説明したり
そういった事を繰り返していくと、自己理解が深まり、少しずつ生きやすくなってくるのではないでしょうか。
発達障害の概念も、診断名も、自分が生きやすくなるためのツールとして使えたらいいと思います。
この分野に関して、やっと少しずつ言語化ができてきています。
先に引用した文章を書いたお二人が、きっかけをくれました。
ありがとうございます。
そして、最後まで読んでくださった貴方へ。
ありがとうございました。