マンボウのうっかりライフログ

やらかす自分のオンライン おいしいものに、用がある。やりたいことを、やるために。うっかりでおっちょこちょい、ADHD特性のあるマンボウが、興味のあることを思いつくままにつづる雑記ブログです。

ADHDの特性があることで、自分が恐れていることは何なのか。

前回の記事(リンク)でも書いたように、発達障害の特性があることを正しく理解してもらうことは、結構難しいと感じています。

決してできない、と言っているわけではありません。

  

先日、ある相談をしました。

 

「職場で、行動が目立ち浮き気味な人がいて、周りからよく思われていない。僕もよく思っていない。でも、その人を排除するのは違う気がする。」

 

という内容です。

 

相談した内容は自分のことではなかったのですが、話した後、自分が何に恐れているか、どんな風に接してもらえたらありがたいのか、ということが、言語化できる気がしました。

 

 

自分は恐れていることは何なのか

 

 ズバリ、自分が他の人と違う人間だと見なされ、排除されることです。

自分が、他の多数派の人とは違う生き物と見られて、同じ人間だと扱われなかったら嫌だ。見捨てられてら悲しい。

大人だから表向きには普通に接してくれていても、心の中では「冷たい境界線」が引かれていたらどうしよう。

 

そういう恐れや不安があったのです。

だから必死に「普通」(平均的で目立たない)ようにしていようとしていた時期もありました。

 

 特性のある自分をどのように捉えるか 

 

薬を処方してもらったり、様々な制度を利用するために診断基準は必要で、医学的にはある程度白黒はっきりさせる必要があると思います。

ただ、そこに囚われすぎるのは、よくないと思うのです。

 

ネットで発達障害のある方が

「定型の人が嫌いです。」

といった書き込みを見たことがあります。

 

色々と、理解されず辛い経験があったのかもしれないと推測します。

ですが、特性があまり強くない人から、サポートを多く受けられることもあると思うのです。

(だって、あまり特性のない人は、特性のある人には難しいことを、いとも簡単にこなしてしまうことも多いのです。味方にすればこれほど強い存在はありません。)

 

 特性のあるなしで区切り、「発達障害特性のある人」「ない人」できっぱり分けてしまうことには、違和感があります。白黒はっきりしないグレーゾーンの人も多く存在しますし、そもそも特性の全く無い「真っ白な人」なんて、存在しないからです。  

 

発達障害は、「フォルダ」より「ラベル」のような物だと捉える方がいいのかもしれません。属性のようなものとして。
 「ADHD」とか「ASD」いった名前のフォルダに自分を丸ごと入れ込んでしまうにではなく、自分という人間は、「甘いもの好き」「エネルギッシュ」「外で活動するのが好き」といった感じで、たくさんタグ付けしたものの中の一つと考えるんです。 
 
特性が強い感じていればいるほど、発達障害のタグは、サイズが大きくてその人を覆っているように感じられるかもしれません。
 でも、いくら特性は強くても、特性はその人の「全部ではなく一部」のはずです。